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  「まさかこんな時代がこよとは」

                                1990年卒 宮内
 慈之


 現学長の石川先生のゼミで同じ時を過ごした生粋のユーモア人、小暮さんから151人目のバトンを引き継ぎました。平成2年卒の宮内と申します。

 卒業して25年‥今年は戦後70年という節目の年ですが、戦後25年を過ぎた昭和45年にはもう自分がこの世に生まれていたことを考えると四半世紀という時間は意外と短いのかもしれません。とはいえ社会に出てから今日までには「まさかこんな時代がくるなんて」と感じずにはいられない出来事が何度もありました。硬軟取り混ぜて書かせていただきます。

 1つめは阪神・淡路大震災です。震災当時は大阪に住んでいて、その前の年に結婚したばかりでした。すぐ傍の街で多くの方が亡くなり、都市機能が長期間マヒしたことにとても衝撃を受けました。被災地に向かう車両で大渋滞した高速道路上にどこまでも灯り連なる赤いブレーキランプ、伊丹空港発の飛行機の窓から見えた建物の屋根にかけられた何千枚ものブルーシート、思い出すだけで当時の無力感が甦ります。その後の住まいや暮らし方の価値観を変える出来事でした。

 2つ目はインターネット・電子メール・携帯電話の利用増大に伴うデータ通信の普及です。新入社員当時、オンラインデータベースの販売営業業務に就いていました。パソコン通信のように、電話回線とモデムで企業のPCとホストコンピュータを接続し、新聞記事や経済統計、企業の財務情報などを検索、提供するサービスで、検索した情報はプリンタで印刷するのが主流でした。情報をパソコンに保存する方法をお客様に何度説明してもなかなか分かっていただけません。情報をパソコンに保存‥そう「ダウンロード」のことです。その後ケータイ着メロやスマホのアプリなど今や当たり前の言葉になりましたが、昔を知る立場としては、ここまで「ダウンロード」という言葉が当たり前になる時代がこようとは‥なのです。

 3つ目はカーナビや携帯情報機器の地図機能の進化です。声で「どこどこへの行き方」と発するだけで最短ルートや料金まで教えてくれるなんて、かつて子供向け雑誌などで描かれていた「僕たちの未来はこうなる」といった記事で創造されていた世界を遥かに超えてしまっています。それでも人は道に迷うもの。私、仕事で外出していると道を聞かれることがよくあります。昨今は「ここに行きたいのですが‥」とスマホの地図画面を眼前に差し出す、おそらく就職活動中であろうお兄さん、お姉さん方が増えました。老眼進行中のおじさんはちょっと戸惑ってしまいます。反対に昔ながらのビジネス地図冊子と路上の地図看板を見比べている人を見かけたときは、こちらから「道分かりますか?」と声かけてしまいます。私が天邪鬼なだけでしょうか。

 最後の4つ目は、東日本大震災(津波と原発事故)です。1978年の宮城県沖地震の後、通っていた群馬県の小学校の社会科授業で津波に関する先人の記録や教えに接する機会がありました。過去の津波到達地点に残された石碑の話や、非難時はてんでんこ(各自てんでんばらばら)に高台に一刻も早く逃げるという話、小学生だった私の記憶に刻まれたいくつかの教訓は、その33年後により一層の説得力をもたらすことになります。チェルノブイリで原発事故が発生した1986年は、高経大入学の年でした。1年時の一般教養科目「物理学」で、原発について肯定派、否定派に分かれてそれぞれの意見を述べるという授業がありました。私は事故の発生確率が原発事故<航空機事故との観点から肯定派で「必要悪だから仕方ない」との考えでした。今となっては、想像力のない浅はかな考えとしか言いようがありません。

 原発は再稼動が目前に迫っている他、自衛隊の運用も妙な方向への舵取りが懸念されます。これからも様々な出来事が私に「こんな時代がこようとは!」と思わせてくれるでしょうが、それは人々の喜びのためのものであって、嘆きの「!」ではないことを願ってやみません。

 次回はゼミの1学年先輩である倉石さんにバトンをお渡しします。よろしくお願い申し上げます。