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三扇祭の思い出
大学院地域政策研究科博士後期課程 2006年修了 中島とみ子

 昨年の夏の夜のことです。どこかで花火を打ち上げる音がしたので、家のそばの歩道橋に上ってみました。すると歩道橋にいた2人の男性が、「夜、道を通る学生がうるさくないですか?」と声をかけてきました。私が家から出てくるのが、歩道橋の上から見えたのでしょう。彼らは高崎経済大学の学生のようでした。
 私は、「高経大生のおかげで、この町は活気があっていいと思いますよ」と答えました。そして、「以前は、三扇祭の前日に、この道を市役所まで高経大生が仮装パレードをしていたんですよ・・」と言うと、「そうなんですか!!」と彼らは驚いていました。
 この日の花火は、沖町で上がっていました。

 前田昇さんから『さんせんの輪』のバトンを渡された時、「三扇祭」のことを書こうと思いました。三扇祭の思い出は、私の父親の思い出と重なります。
 昭和30年代初めのころから、上並榎で材木店をしていた父は、三扇祭の時期になると、大学祭に使うべニヤ板や棒などを買いに来る学生さんたちとの会話を楽しんでいました。端材などは、タダで分けていました。
 大学祭を前にしたある日、父が、面白くて仕方がないという様子で、「空手部の学生が、どの板が割れやすいですか?と聞いてきた」と話したことがありました。「木目が縦に粗く入っている板がいい」と探して切ってあげると、大学祭が終わった後、空手部の人たちが「うまく割れました。ありがとうございました」と、お礼に来たそうです。
 毎年、三扇祭パレードの行列が家の近くに来ると、父も職人さんたちも仕事の手を止めて、応援に出ていました。

 私が友達と三扇祭に行ったのは、中学生の頃でした。その時の大学祭の自由な雰囲気と黄色いイチョウ並木は、ずっと心に残っていました。
 上並榎町で生まれ育った私は、その後、学生時代を含めて10年間東京で暮らしましたが、夫と2人の子供を連れて再び上並榎に戻ってきました。その頃には、父は材木店を閉じ、三扇祭のパレードも交通規制等の問題から行われなくなっていました。

 高崎経済大学に大学院が開設されると聞いたのは、子育てが終わったころでした。
 2000年(平成12年)に、私は地域政策研究科に社会人入学しました。父は亡くなっていましたが、母がとても喜んでくれました。
 大学院では多くの先生や友人と出会い、中学生のころ三扇祭で感じた自由な雰囲気を、自分のものとして実感することができました。そして2年後、新設された博士後期課程に入りました。学会発表や論文作成に忙しい日々の中で、季節の巡りを知らせてくれたのは校庭のイチョウ並木でした。

 近くに高崎経済大学があったことは、私にとって幸運でした。

 次回は、イギリスのパブが大好きな 山本えり奈さん にバトンを渡します。