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 1969卒 加来重樹
 「故郷忘じがたく候」  

 若い頃読みふけった司馬遼太郎の本の中に「故郷忘じがたく候」があった。まだ30歳代前半だったその頃、故郷への想いなどは遥かに遠く、自分には無縁のように思えた。
 間もなく67歳になるこの頃、殊更に故郷への想いは深く、今は世田谷の家族宅と福岡県築上郡の実家の古家とを往復する二重生活の身である。
 現役時代は東京→福岡→東京→ニューヨーク→東京→名古屋→大分→東京と忙しく駆け抜けた38年間だった。名刺交換の都度、「カク」と読まれない姓の紹介を「賀来は豊後(大分)の出で金持ちが多い。しかし私の加来は貝が付かず、豊前(福岡)の出で貧しい家系でご覧の通りの出稼ぎ者」と冗談交じりに自己紹介をすることが習い性になっていた。 55歳も過ぎ最後の地方勤務になった大分県でのお客様挨拶廻りの折、県立歴史資料博物館長より賀来神社に是非とも参詣するようにと勧められたことが今思えば私の故郷歴史探訪へのきっかけになったようだ。 幸いインターネット検索という便利なツールがある現在、同姓の先人が立ち上げた労作「賀来(加来)姓のホームページ」に触れる機会を得た。
 その「加来ものがたり」によれば、私の始祖は、大和の国三輪(現在の奈良県桜井市)の大神神社の大宮司に連なる豊後大神姓系譜で、元暦元年1184年2月源義経が攝津の国一の谷で平家軍を破り対岸の屋島に敗走させた折、平家軍が再び九州に再上陸することを阻むため、豊後武士団の惣領緒方三郎大神惟栄が豊前における最も関門海峡に近い繋ぎ城の城主として派遣した賀来四郎大神惟成であるという。
 爾来今日まで829年間、よくも同じ土地で代々世を継いで来たものだと驚嘆せざるを得ない。 豊前の賀来が何時、何故加来に変化したのか未だ定説がない。しかし源頼朝が派遣した守護職宇都宮氏への恭順を示さざるを得なかった地勢的理由があると私は考えている。
 源平の戦から下って400年、戦国の終わりを告げる織豊の世、1587年わが故郷は豊臣秀吉が派遣した黒田官兵衛軍によって蹂躙され、宇都宮氏ともども多くの加来一党が滅ぼされていくことになる。その経緯は司馬遼太郎の街道を行く34巻「中津・宇佐の道」に記されている。今、北九州地域メディアでは来年のNHK大河ドラマ「黒田官兵衛」の筋立てが何かと取沙汰されている。
 秋の気配なお更に故郷忘じがたく、最後に一句、「神無月出雲路辿る三輪の神、惟義辿る宇佐街道」 

 次回の随想は同期卒の高橋正義氏にお願いいたします。