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                                  1969卒   藤井 猛

「中小企業と私」

 本年10月の誕生日を迎えて64歳に達する。昭和40年に富山から高崎へ、その4年後、昭和44には就職で東京北区赤羽に在住、7年後の昭和51年には東京多摩地域東大和へ、平成16年には30年間住み慣れた東大和に別れを告げ、現在八王子市に住んでいる。退職後4年目を迎え、退職後の生活はほぼフルタイムに近い状態で働いている。従って毎日の起床時間、勤務時間、帰宅時間、休日の過ごし方など、現役時代の生活のスタイルをそのまま引きずっている。退職して、今までの生活をじっくりと振り返るようなゆとりもなく、明日の仕事のことを慮って過ごしている今日この頃である。そこで、今回この紙面をお借りして、わずかだが過去のことを振りかえる契機にしたいという思いである。

 わが第二の故郷高崎を出立して、昭和44年から平成22年までの40年間。私の仕事生活の軌跡のなかで一貫していることがある。それは中小企業とのお付き合いである。昭和44年に東京都経済局に勤務した。高度成長期の真只中で、都行政の経済政策の重点は中小企業政策であった。もちろん国も中小企業政策には力を入れており、当時の通産省の外局として中小企業庁が存在(現在もある)し、中小企業政策策定の中心的な役割を果たしていた。中小企業政策の理念は、昭和38年に制定された「中小企業基本法」に見られるように、当時の中小企業の位置づけは、「二重構造論」の中で語られていた。高度成長期に大企業を中心とした高生産性部門と中小企業の低生産性部門の並存、近代的大企業と前近代的な零細企業が並存し、両者のあいだに資本集約度、生産性、技術、賃金などに大きな格差があり、この【格差是正】が政策理念であった。大企業対中小企業という図式のなかで、中小企業は経済的弱者という捉え方で、政策の体系は中小企業構造の高度化・生産性の向上を目標に政策が作られていた。我々の仕事もこの目標を中心に位置づけられ、各都道府県及び政令都市には行政の中小企業指導機関が政策的に配置されていた。

 しかし、時代の流れの中で、37年間続いた中小企業の政策理念が大きく変わるときがやってきた。平成11年12月に中小企業基本法が改正され、法の理念が経済の二重構造の是正を図るための「全体の底上げ」から「多様で活力ある独立した中小企業の育成・発展」、つまり政策はやる気のある企業への支援へと大転換したのである。この転換によって我々の立場も指導から支援へと移行し、民間活力の活用という視点も加わり、各地域に配置された各都道府県の中小企業指導機関は名前を消していった。軌を一にして私が籍を置いていた組織も消える運命となる。しかし、その後も、中小企業の投資ファンドを立ち上げ、中小企業の事業化のために投資したり、新株予約権付社債で資金を供給する仕事に携わった。ファンドの投資企業の新事業が軌道に乗り、成長するかどうかを見極める判断の難しさをいやというほど味わった。

 現在は、嘱託という立場で中小企業の販路開拓支援の仕事などをやらせてもらっている。事業所数で企業数の99.7%を占め、雇用者数で約7割を占め、日本経済の支えとなり、地域経済の中心的な役割を果たしてきた中小企業だが、このところ中小企業の減少は尋常な減り方ではない。経済のグローバル化のなかで従来の安定的な取引構造が崩れ、新たに中小企業のあり方が問われている。この問題に加え、人口減少時代を迎え、国内市場の成熟化、縮小の問題、超高齢社会の到来、バブル崩壊後の慢性的なデフレ経済等々、中小企業を取り巻く環境変化の厳しさを肌で感じる今日この頃である。時代の流れが、新たな中小企業政策の転換を迫っているのかもしれない。