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                                 1963年卒 秋吉 孝一
                           
「東日本大震災地での勤務の思い出」
                    
 こんにちは!香川長生さんからバトンタッチ受けた1963年卒の秋吉孝一です。香川さんとは生物研究部OB会を立ち上げ毎年尾瀬へ行ってる仲間です。最初にこの度の東日本大震災により被災を受けられた多くの皆様に心よりお悔やみ申し上げます!
 さて、私は'63年卒業後高校の教員になろうか?(静岡県職は教育長が態々大学まで出向き面接のみで採用された)銀行に入ろうか?迷った末、日本橋の常磐小学校横の余り名の通っていない当時相互会社が多い業界で珍しく株式会社で再保険もやっていて、「学閥関係なく実力本位!」のキャッチフレーズにほれ、某生命に研修生として入社、(高経から3名入社1名途中退社、各大学から同期65名採用、停年を迎える迄居た方は23名)世田谷区等々力に別館と研修センターがあり、そこで1ヶ月研修後初任地は宇都宮支社指導教育係、6月に全国から42名の研修生が再度等々力に集められ、1ヶ月営業実践教育で等々力から大井町に掛け月曜〜金曜迄飛び込み募集、身も知らない家に知名度も無い会社の説明から入り、午前10時から午後3時迄昼食をはさみ大変な苦労でしたが、そこで実績1位となり、社長より財布とベルトのセットを貰いました。'63年7月に盛岡支社副支部長で転勤。夏のボーナスにて8万円で買ったマツダ360CCクーペで後ろに毛布を積み、「混合だからオイルが減るから途中で足しながら行くように」と小山の支部長から餞別代わりに2リットル缶のオイルを貰い、高速道路も未だ無いので、砂利道をひたすら地図を頼りに北上、眠くなったら路肩に車を停め毛布を掛けて仮眠、二日がかりで盛岡支社(中央通)に無事到着。滝沢村の大船渡小学校勤務で週末だけ戻る先生の家に留守番兼ね間借り、10月にはスバル360CCに替えて、今度被害の大きかった宮古、釜石へ社員2人を乗せ、米を持参、お寺の本堂に泊めてもらい一週間、学校、県庁の出先、市役所を廻り、教職員、公務員の特殊な保険の募集をしました。東京オリンピックの時で昼休み県庁の出先で丁度マラソンのはだしのランナー「アベベ選手」が走っている時で一緒に白黒テレビ観戦で仕事になりませんでした。夕方5時過ぎ途中釜石の魚屋でさんまを買いお寺に帰宅、社員が釜戸でご飯を炊き、七輪でさんまを焼きささやかな夕食でした。仕事の途中本当に風光明媚な街だったと記憶しています。また、11月頃一人で八戸近くの学校へ行った時夕方だるまストーブを囲み7人位の先生が職員会議をしていて、用務員さんがストーブの上で豚汁を作っていて、校長先生が「食べていきなさい」とどんぶりによそって頂きご馳走になり、保険も5人から頂き帰る途中雪が降り出し急に温度が下がり、盛岡まで1時間位手前で4トントラックの後ろを走っていたら急にトラックがブレーキを踏んだので5m位離れていたのですがブレーキを踏んだらあれよあれよとカーセーリングの様にすべり左にハンドルを切ると堤防から濁流のすごい北上川につっこむので仕方なく真直ぐにトラックに突っ込み荷台の下に潜りフロンとガラスが破れて止り、トラックは何も損傷は無く私はフロントガラスの破片が手に刺さり出血程度で、広報用品のタオルを手に巻き、フロントから雪をしんしんと顔に受けながら買った車屋さんまで運転して来た苦い経験もしました。・・・・・ ・・・・・・このつづきは又バトンが回ってきたら・・・