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                                1995年卒業 長谷川 聡

『大学時代の想い出と社会人になって思うこと』

 皆さんはじめまして。95年卒の長谷川聡と申します。現在は、三井住友海上火災保険椛蜊繼燉Z法人部という部署で、主に三井住友銀行の窓販拡販に向けた仕事をしております。


 今回岩井大先輩のご指名を受けまして若輩で恐縮ですが寄稿させていただきます。今回大先輩の長崎さんの随想録を拝読し、私も大学時代を懐かしく思い、少し振り返ってみたいと思います。


 千葉出身の私は、大学合格後、一人で下宿さがしに大学まで来ました。群馬という土地は兄が群馬大の工学部出身だったこともあり、なんとなくではありますが身近に感じておりました。兎にも角にも大学生活は家から出て生活を送りたい一心でしたので合格した時は嬉しかったのを覚えています(これは二浪した末に合格したところもあり早く自立したいというのあったからです)最初は、上並榎の酒屋のエコー隣、矢島下宿にお世話になりました。4畳半で風呂、トイレ共同といったところで、ふとんと先述した群馬大の兄がちょうど入れ替わりで卒業したので小さな冷蔵庫をもらって、その二つだけで入居しました。たしか家賃は、一か月14000円(まかない1食500円)だったと記憶しています。当時は、ワンルームに初めから入居する同級生も珍しくなく、少々戸惑いましたが下宿に入ったおかげで、生涯の友人や、先輩と巡り会うことが出来、良かったと感じております。

 下宿の私の部屋の前入居者の小牟田さん(現在キャノン販売勤務)、二つ隣部屋の松本さん(現在アパレルメーカーのワールド勤務)が少林寺拳法部の方で、小学生から少林寺をやっていた私は多少迷いましたが入部しました(教員志望だったので教職課程をとることで部活にあまり行けないかなというのがあったためと、大学で厳しい(?)体育会に入部するのがいまひとつ気乗りがしなかったというのも事実です)また仕送りもほとんどなかったので、すぐバイトをしなければならず、バイト先も紹介してもらいました。現在の柳川町にある「志摩」というお店です。当時はバブルの余韻もまだ残っており、夕方4時から深夜の1時、2時にやっと帰宅というのはざらでした。ただ、部活では地元で少林寺を教えている師範や弟子の大人の方々、「志摩」では、マスターやママさんに社会人としての立ち振る舞いのイロハを教わりました。これは社会人になってから大変役に立ち、感謝しております。

 特にバイト先のマスター、ママさんは、今でもお付き合いをさせていただており、高崎は第二の故郷、第二の父、母と思うほどお世話になりました。仕事に対する姿勢や厳しさはまさに学生気分の私には衝撃的でしたし、仕事をする厳しさを肌で感じたのは大変勉強になりました。社会人になって思いますが、目配り、気配り、心配りといった立ち振る舞いを出来るか出来ないかは大きく、学歴とは別の次元だとつくづく感じました。就職活動に入るとき、スーツを買って下さったのも今でも忘れられません。社会人になり、現在は高崎勤務の当社の社員を斡旋することを恩返しとしています(笑)  


 大学3年になると体育会本部の仕事をやることになり、どういうわけか代表幹事なるもになりました。まあ、年を二つ余分にとっていたこともあるのでしょうが・・・。そのころ、当時高経大では、付属高校をつくるとかなんとかで、大学の校舎、グラウンドを付属高校の生徒と共有することになるかもしれないなんて話があり、体育会本部としてどうするんだという難題が勃発しました。今のようにたくさん施設もなく充実もしていなかったので、もしそんなことになれば体育会各部の活動は半減したりという事態になりかねない問題でした。新聞社からは学生代表としてどうしますか?どうお考えですか?なんて電話があったり・・・。前例のないことに戸惑いを覚えつつも、学長、学生部長、大学事務局、教授の方々、そして体育会員の仲間と膝詰で話したのを覚えています。先生方にはあつくなるあまり多少失礼な発言もあったかもしれません。また時には、当時の彼女の家で体育会に関係する先生を招いて焼き肉&飲み会をして意見を聞いたりと・・・。いろんな方と話をしたり飲みに行って情報を収集したりと、今とあんまりかわらないなあと思いつつ、当時は学生なりに精一杯考えて対応していました。
(現在勤務している会社の就職活動の際、この話は結構受け、人事部長には老獪だねえといわれたのを今でも覚えています)  

 結局、大学の施設は使用しないこととなり、ホッとしましたが・・・。応援団や文化サークル協議会、ゼミ協の代表者と会議をしたりと、同じ学生でも立場が違えば意見も異なり、悔しくてよく寝れなかったのを覚えています。ただ、この問題があり、体育会規約の見直しをはかり、体育会総会の招集にまつわる代表幹事の権限強化を新たに規約に盛り込むなど大きく体制を見直す改革を行いました。

 その後もいろいろありました。体育会本部主催の次期幹部を招集したリーダーズキャンプで急性アルコール中毒者がでて、親御さんに謝りにいったり・・・。ただ親御さんからは、「学生になって自分の飲む酒の量もわからない自分の子が悪い」と言われホッとしたこともありました。その後、体育会としてお酒との付き合い方について真剣に議論し、翌年の新入生歓迎のフレッシュマンキャンプでは初めて酒をなくして行いました。おそらく後にも先にも酒なしのキャンプはこれが最初で最後ではなかったのではないでしょうか・・・。

 いろんなこともありましたが、酒にまつわることが原因で過去廃部になってしまった「競技スキー部」の体育会復帰についても支援しました。またアメリカンフットボール部の準加盟にも尽力しました(その後本加盟になりました)この両部は非常に熱心に練習をし、加盟に向け運動していましたので、本部としても支援し、体育会総会でも満場一致で採決になったと記憶しています。

 1年間という短い間でしたが、体育会本部での経験は、非常に有意義で貴重な経験でした。
体育会員約800名の前で話したことは、人前で話すとき緊張せずに話せる良い経験となりました。付属校の問題では、自分の力の範疇の及ばない世界を知るとともにどうすべきか考えることが出来ました。都留文科大学との対抗戦では、あと一勝が出来ず公約通り丸坊主となりましたが、本部として、勝負に参加出来ない部を当時の副代表幹事の古川君(極真空手道部)を隊長に私設応援隊としてはじめて参加させたり、(就職活動と教育実習で大会直前留守にしたので)運営は前述の古川君ともう一人の副代表幹事の矢田君(直心影流剣道部)に任せ仕切ってもらったのも良き思い出です。体育会本部の仲間と明け方まで、朝まで生テレビ顔負けに議論したのも忘れられません。本当にみんな情熱のある良き仲間でした。さらに体育会本部の活動を優先することを支援してくれた少林寺拳法部の仲間にも感謝しなければなりません。
 
 
 社会人になって思うことは、毎日があっという間で、ゆっくり振り返ることがなかなか出来ないなあと感じていることです。また、納得感のある仕事をこなしているのかとか、いろいろ考えることが多い毎日です。教員になる前の経験と思い就職した現在の仕事もどういうわけか15年目になり、家族もでき、子供にも恵まれ、当たり前ですが、学生時代とは大きく変わりました。  気持ちは、大学時代のままですが、今思うことは、やはり大学の4年間はいろいろなことが出来る至福の時で、いろんな経験をしておく大事な時期だということ、大いに貴重な時間であると思います。社会人になったら海外旅行にも長期で行けないだろうと思い、バイトで貯めたお金で大学2年と4年の時ヨーロッパを旅行したのも学生だったから出来たと思います。(実際、社会人になってからは一度も海外旅行に行けていません・・・)  つれづれなるままに書いてしまい恐縮ですが、次回は今はなき鈴木ゼミ同窓生である角田君にバトンを渡したいと思います。